指導されることと指導すること
私のことを先生と呼んでくださる方がいます。私はそのみなさんのことが好きですし、みなさんがみなさんの願う上達に近づけるように協力したいと思っています。みなさんがご存知ない書についてのたくさんのこと、面白いものだと知っていただけるよう、私がこれまで学んだことを伝えていきたいと思っています。
それと同時に私が先生と呼ぶ方もいます。私が昨日の私より上達するように、よい作品が書けるように指導してくださるのが先生です。先生の前では私はとても小さな存在で、自分のことをうまいなんて思ってはいけません。
私の中に「先生である自分」と「弟子である自分」がいます。「先生モード」と「弟子モード」と呼ぶことにします。
一旦「弟子モード」に入ってしまうと、私の未熟さがひしひしと感じられて、もっとたくさん書いて上達しなくてはなあと思います。私に指導してくださる先生に近づくには、あと何百年必要なんだろう、私には到底辿り着けないや、とまで思ってしまいます。だから、そのモードから「先生モード」になるときは、大きなエネルギーを要します。「弟子モード」の自分は、自分のことをまだまだまだまだ未熟だと思っているのですが、「先生モード」の時にそんな自分を出してしまったら、そんな人に誰も教わりたいと思わないでしょう。
もちろん、私だってこれまで多くの時間を書に費やしてきました。そこには自信を持っているし、指導することも好きです。でも「弟子モード」の自分の方が少し楽だったりします。そこに責任が伴わないからかな。
世の中には私と同じように、指導されつつ指導する立場の方はたくさんいらっしゃいます。他の皆さんはどんなふうにバランスを取っていらっしゃるのかなあと思います。
「弟子モード」の自信のなさは私自身が書き続けることでしか解決しません。もっと書く時間を作りたいものよ、とひしひし感じた雨の夜。「先生モード」の時は、なるべくみなさんが自信を持ちつつ、さらに前へ進みたくなるような指導をしたいなあと思っています。
発信と主張
もしかしたら読んで気持ち良くないかもしれないので、ごめんなさい。
ふと思ったので書き留めます。
私は昔から自己アピールが好きではなくて、教室の宣伝も辛いなあと思っていました。
他の教室やってるみなさんも頑張ってるし、もちろん私もたくさんの人に書道を教えたいし、私のところに来てくださったら、いいことあるよ、って思っているんです。心の中では。
でも、私のところはいいからおいで!と言うのがとっても苦手でした、胸が苦しくなるし、背中が痒くなる。やってはいけないことをやっている気分になります。
小さい頃からずっと、自分からアピールすることはあまり美しいことではないと思ってきました。中身が伴っていないのに自己アピールをしている(ように見える)人を見ると、「自分は絶対ああなりたくない」と思っていました。
なんでそう思っているのか、ずーっと謎でした。そう思う自分がいなければ、もっと色んな人に書を教えられるかもしれないのに。たくさんの人に教えたいです。色んな人と出会うのは楽しいし、十人十色の作品を見るのは胸が躍ります。
ふと気づきました。
私は、自己アピールをしなくても、私のことを特別扱いしてもらえる環境で育ってきたんだ。
と。
田舎の出身なので、学校の人数も多くなかったし、私は勉強ができました。「ほらみて私すごいでしょ」って言わなくても、「すごいね」って言われることが当たり前でした。だから、なるべく目立たないようにしていました(今思うとそれにすごく気を割いていた、んだけど、もし同級生見てたらいやそんなことないやろ、と思うかもしれないけれども)。ただでさえ先生に気に入られているのに、さらにアピールをするとみんなに嫌われてしまうかもしれない、ずっとそう思ってきました。
それが、今も私の根っこにあるんだと思います。自己アピールをしたら、みんなに嫌われてしまうかもしれない、っていう感覚。
でも、自分の教室はみんなに知って欲しいし、教室に来てもらうのなら、私がどんな作品を書いているのかもみていただきたいです。これは、間違った自己アピールではなく、やるべきアピールです。
自分がすごいって言いたいわけではなく、自己アピールの苦手さの根幹に気付いたこと、教室にいろんな人に来て欲しくて、みんなに知ってもらう行為は別に下品な行為ではないと言うことにも気付けたので、これから知ってもらう努力をしたいなあという決意です。
東京出てきて何年経つのよ今更気付いたんかい、と思いますが、気付いたところから変えていくしかできないので、これからもきちんと気付いていきたいし、後戻りしないようにしようと思います。
8月のお教室の予定
青葉台教室、2週続けてお休みでしたが、再開します。
青葉台教室は暑すぎるので、扇風機?サーキュレータ??が2台登場しました。
どの向きに置くのが最も効果的なのかわかりません、、
色々実験してみようと思いますが、詳しい方教えてください。
(私が座っている席が非常に暑いのです)
とても暑いですし、私も涼しい格好で行きますので、皆さんも涼しい格好でいらしてくださいね〜
見学などいつでもお越しください😊
教室の詳細はこちら h-shinju.com
👧先生、「甘露寺」って苗字ほんとにあるんだね、「不死川」はあるかな?
— hatakeda shinju🐤書家 (@shinju_ht) 2021年7月20日
👩🦰え、ないでしょ、不ついてるけど、死だよ?ハーゲンダッツかけてもいい
👧(ぐぐる)えー、あるよー
👩🦰まじ?
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🍨#書道教室のひとこま
第72回毎日書道展 出品作について
やさしくないなあ、と思いました。優しい気分になれない作品だ。そりゃそうか、命令文だ。
今回のテーマは、「潤筆と渇筆(※)の重なり合いから遠近感が生まれないかしら、そして枠からはみ出ること」でした。
(※)墨がたっぷりの線と、かすれた線
重なり合いについては、こんなイメージ 東京国立博物館コレクション 升色紙
「一」という画数の少ない字と、画数の多い「圖」(旧字体)の重なり合い、そして、空いたスペースに書く小書き(小さい字たち)がそれを引き立てる役を担ってくれるか、という期待をしていました。頭で想像したり、計画したりするのは簡単です。しかし、だいたいそれは思い通りにいきません。
なんで「一」がこんな左から始まっているのか、なんで小書きがこんなちんちくりんなのか。会場で見て唖然としました。特に小書きの最後の「響かせよ」か全く響いてない。隣の「引け」に墨が入っているから、「響かせよ」はもっとふわっとすればよかった。ふわっと白いところと、ぎゅっと黒いところが一枚の紙の中でうまくせめぎ合うような作品が書きたいな。そう考えると、「図」も、もっとふわっとすればよかった。
もう一つ。墨。思い返すと、わたしは墨にあまり意志を持って制作していないです、正直。そこに意志を持って制作しているひとに、意識を向けたいです。「こうすることは誰かに失礼かもしれない」と思って自分の行動に制約をかけることは、これからあまりしないようにしようと思っているけれど、計画性がないがゆえに結局いつも同じ感じ、になるのは避けたいところです。
毎日書道展東京展前期は7月19日までです。前期のみ展示の作品だけを見ました。週末に全部見ようと思います。毎日賞の作品は、やっぱり、書くことを思いっきり楽しんでいる雰囲気がとってもよい。このかたたちが、どうか、これからもずっと楽しさと共に書を学べたらいいなあといつも思います。
知っているみなさんの作品はいつも楽しみにして美術館に行きます。今回はなぜかいつも以上に「この詩文を書かれたのねえ」と、作品の前でその方を思い浮かべました。なんででしょう、ずっと会ってないからかな。素敵!って思った人も、えー、って思った人もいるので、ご本人に直接伝えていこう。
やっぱり詩文を書く以上、書いた言葉からは逃れられないし、それに責任を持ちたい。
青葉台教室ー燕(en)ー 水曜日・木曜日
青葉台教室のご案内です
aobadai-shodo-en.jimdofree.com
畠田の担当は水曜です。
<水曜日>
大人の部(月2回、または3回)
13時30分〜、15時〜、19時〜
月2回の方は、奇数週、偶数週に分けて来ていただいています。
※偶数週、募集中。
子どもの部(月3回)
16時30分〜18時30分(うち1時間くらい)
※募集中。
現在木曜日は、藤井先生にお願いしています。
<木曜日>
子どもの部 16時30分〜18時
※募集中。
一生懸命書いた作品の良いところを見つけながら
「良い字」が書けるように指導しています。
子どもクラスは、楽しく書くことを重視しています。
時間については、開講時間内であれば柔軟に対応できますので、お気軽にご相談ください。